はじめに
第1章 「マレー語映画」の盛衰とその政治的背景(1972年Cathay-Keris の閉鎖まで)
第2章 映画の砂漠時代(1970-90年代初期)
はじめに
1、 シンガポール概要
1965年マレーシアからシンガポールが分離・独立した時、李光耀(リー・クアンユー)以下の政府指導部の最優先課題は、如何に約150万人(注1)が東京都23区に相当する699平方キロに居住する都市国家を政治的・経済的に生き残らせていくかであった。彼等の「生き残りのイデオロギー」政策は、持続的な経済発展の推進と、華人系76%、マレー系14%、インド系8%、その他2%から構成される新生多民族国家の速やかな国民国家化という2つの課題の上に成り立っていたのである。
独立直後の1960年には僅か1,306Sドルだった一人当たりGDPは、1980年10,405Sドル〔4,859USドル〕、1990年には21,915Sドル〔12,091USドル〕、2003年には38,599Sドル〔22,155USドル〕へと急速な上昇を示しており(注2)、現在シンガポール政府は、自らを「安全で清潔な国」として位置づけている。
極めて高い経済発展を誇る反面、「政治的権利と国民の自由」を2指標とした『フリーダム・ハウス』調査(注3)で、シンガポールは1972年以降2004年まで一貫して「一部の自由が認められている国」の指定を受けている。またシンガポールの政体を武田康裕は「政治結社を作る自由、及び有権者が投票行動に必要な情報を入手しうる政治的自由への制約が、実際の政権交代を阻止している点でシンガポールは『擬似民主制』に属する。人民行動党が独立以来一貫して政権の座についているのは、治安維持法、新聞・出版物法などによって野党の自由な活動が封じられているからである」と述べている(注4)。
2、 シンガポールの映画状況
日本映画製作者連盟及びシンガポール統計局の資料によれば、年間入場者は2005年現在14,800千人(日本は160,453千人)、人口一人当たりの年間鑑賞回数を意味するパー・キャピタは3.34回(1990年が6.8回なので半減)である(日本は1.26回)。また1スクリーン当たりの人口比は29,311人(日本は43,359人)である事から、映画は日本と比べ施設が整備され、未だ人気の高い娯楽だと言える。Philip
Cheah(注5)は「狭い国土と少ない人口にも拘らず、年間の興行収入が1億Sドル以上である国だとの認識が、1987年に『シンガポール国際映画祭』を発足させる要因となった」と述べている。
次にシンガポール映画であるが、戦前のシンガポールでは興行収入の約7割がハリウッド映画、約1割がそれぞれ欧州映画、香港・上海映画によって占められていたが、この傾向は現在も変わらず、2003〜2005年の興行収入ベスト10でシンガポール映画は2作のみ、約5%のシエアを占めているに過ぎない。しかし共同制作を含め1998年以降、年間4〜8本を制作している状況、及び1998年に制作された『Money
Not Enough』が、1998年の『タイタニック』、1997年の『ロスト・ワールド』に次いで, 1991年以降の歴代興行収入第3位となっているのは、シンガポール映画の再生が始まっている兆候を端的に示している。また広範に亘り厳しい検閲制度を行使してきた政府当局が、漸進的な緩和政策を採用し始めている事もこの再生に大きく寄与しているのは明らかである。
なお本稿では、シンガポール映画を「シンガポール人スタッフにより制作された映画、及びシンガポール資本の出資又は外国人人スタッフとの共同制作映画の総体」と定義する。
3、本稿の分析視座
本稿は松岡環が1997年に出版した『アジア映画の都』で、マレー語映画をより重視した以下の発言、特に「一度断ち切られ、別の歴史がスタートしようとしている」との視点に立脚しない。
シンガポールは1991年の『ミディアム・レア』の後、1995年になって『ブギス・ストリート』、「ミーポックマン」という2本の映画をまた生むのだが、これらはいずれもかってシンガポールに存在した映画の世界とは全くつながりを持たない。シンガポール映画史は一度断ち切られ、今度は完全に別の歴史がスタートしようとしている。こんなシンガポールで、マレー語映画全盛期のあの記憶を掘り起こそうとする人などいない。
本稿では、前述「生き残りのイデオロギー」政策に関連する政治的視点に立脚し、今年第19回を迎えた『シンガポール国際映画祭』の活動推移を考慮しながら、「マレー語映画」盛衰期を経て1991年以降現在に至る再生途上で、シンガポール映画が如何なる変容を遂げているかを継続的・総合的に分析する事を目的とする。
4、本稿の構成
第1章;「マレー語映画」の盛衰とその政治的背景(1972年Cathay-Keris の閉鎖まで)
Jan UhdeとYvonne Ng Uhdeは「シンガポールを拠点として1958年には年間最大20本の「マレー語映画」が制作された事から理解できるように、1950〜1960年代は『マレー語映画黄金時代』全盛時代と言われる」と述べている。本章では「マレー語映画」の盛衰要因を政治的視点に立脚し分析する。
第2章;映画の砂漠時代〔1972-1991年〕
1984年、示唆に富む記事が掲載された。Philip Cheahの「シンガポールは映画産業を構築できるか?」である。本章では、国産映画制作が殆ど皆無という苦境下で、制作当事者は如何なる再生に向けた努力を行っていたのか。また政府は如何なる政策を取っていたのかを分析する。
第3章;シンガポール映画の再生〔1991年〜現在まで〕
李光耀首相の後を継いだ呉作棟(ゴー・チョクトン)は1991年、国家目標『ネクスト・ラップ』を発表し「より高度なビジネス基地としての発展は勿論だが、むしろ今後は文化的・精神的に豊かな社会の形成を目指す」と強調した。本章では政府の文化産業促進政策及び制作当事者の映画再生活動を述べると共に、将来への課題を提起し本項の結論とする。
注記
注1、シンガポール大使館の2006年『シンガポールの概況』によれば、2005年現在の総人口は、非永住外国人798千人を含み4,351千人である。
注2、日本、タイの2003年の数値は、それぞれ33,640USドル、2,276USドルである(シンガポールの数値はシンガポール統計局から引用、他はASEANセンターの数値)。
注3、シンガポールと同様に1960年代以降高い成長を遂げているNIEsの一員台湾は、1976年以降「一部自由」、1996年以降は「自由の国」に転換し民主化が進捗している。またタイは紆余曲折を経ながらも、1991年以降「一部自由」、1998年以降「自由」の国に転換している。一方中国は一貫して「自由のない国」の指定を受けている。
注4、2006年5月9日付日本経済新聞朝刊は「2006年選挙で人民行動党は84議席中82議席を占め、支持率が66.6%となった(前回2001年11月は75.3%)」との記事を掲載している。なお支持率が1969年の84・4%を最高とし、その後は60〜70%台を上下していること自体、強力な管理体制に置かれている状況を示している。またシンガポール大使館は2006年『シンガポールの概況』で「1978年―2004年間に発生したストライキは1986年の1件のみ」という驚くべき資料を公表している。
注5、「シンガポール国際映画祭」設立当初からの企画担当役員であり、同国唯一のロック音楽誌『Big-O』編集発行人、更に1994年に創立された「Network
for the Promotion of Asian Cinema」のボード・メンバーでもある。
第1章 「マレー語映画」の盛衰とその政治的背景 (1972年Cathay-Keris
の閉鎖まで)
本章では「マレー語映画」の盛衰過程及び如何なる要因がその背景にあったのかを、以下の問題意識に基づき分析する。
* シンガポールで制作された「マレー語映画」は、狭小な国内市場ばかりでなく隣接マレー語圏の巨大市場までを想定していた。それではシンガポールの国内・対外政策は如何に変容していったのか。
* 1931年には既に人口の75%を華人系が占め、現在の人口構成に近い状況になっていたシンガポールで、何故「マレー語映画」が制作され、またその終結を迎えざるを得なかったのだろうか。
第1節、マレー語映画
Jan UhdeとYvonne Ng Uhdeは「恐らく、1950年代シンガポールの入場者数パー・キャピタは世界第1位だっただろう。1950−1960年代のシンガポールは、ハリウッド映画の圧倒的シェアの中で、1958年に年間最大20本が制作された国産の『マレー語映画』(内訳;Malay
Film Production Ltd 11本、Cathay-Keris Productions 9本)を中心とした『マレー語映画黄金時代』を形成した」と述べている。
2大制作スタジオと呼ばれたショウ・ブラザーズ(1947年からはMalay Film Production Ltd)は1967年のスタジオ閉鎖まで300本以上、一方のCathay-Keris
Productionsは115本のマレー語映画を制作した。
なお本項では伝統的マレー大衆演劇「Bangsawan」の影響も受けた「マレー語映画」を「資金の出し手であるプロデューサーと興行主が中国系、映画制作スタッフの多くはインド系そしてマレー系が役者として共同制作されたマレー語の映画」と定義する。
第2節、マレー半島におけるマレー語映画前史
Philip Cheahによれば、1933年マレー半島初の映画は、ボンベイに本拠を置く「Motilal Chemical Company」によって、B.S.Rajhans(ラージハンス)監督の『Laila
majnun』(ライラ・マジュヌン)である。なお同監督は1945〜1955年の間に20本以上の映画を制作したが、多くは前述「Malay Film
Production Ltd 」によるものであった。
同社のオーナーであるショウ・ブラザーズの兄、Runme Shaw(ランミー・ショウ:邵仁枚)は、1925年上海の寧波からシンガポールに赴き、彼等兄弟が上海で経営する「天一映画社(Unique
Film Production)」(注1)が制作するサイレント映画をマレー半島中心に配給・公開するため「Hai Seng Company(後のShaw
Organization)」を創立した。3年後Run Run Shaw(ランラン・ショウ:邵逸夫)を呼び、マレー各地の巡回興行と共に自ら劇場経営も開始した。1930年代後半にはシンガポールからマレーシア、インドネシア、タイまでに至る一大劇場チェーン(劇場数139)を完成させ、更に1938年からシンガポールで「マレー語映画」制作に乗り出した。
注記
注1、「天一映画社」の社名は「西洋文明に対抗すべく、中華文明の伝統的道徳観を広しめる事」に由来すると、Yingjin Zhangは述べている。
第3節、黄金期からスタジオ閉鎖に至る経緯−2大制作スタジオと2人の名監督−
1、ショウ・ブラザーズ
「マレー語映画」制作を再開させるため、ショウ・ブラザーズは「Malay Film Production Ltd」を1947年に設立し、インドから監督(ラージハンス、クリシュナン等)・技術者を招聘した。松岡環とのインタビューでC・J・クエックは「スタッフがスタジオで使っていたのはマレー語だった。インド人監督の場合は脚本を英語で書き、それをマレー人助監督がマレー語に訳していた。インド人監督を連れてくる事にしたのはランラン・ショウの決定だった。当時インドの方が映画制作に関しては進んでいたからだし、マレー人教育の意味もあった。ハリウッドからだとお金もかかるから」と述べている。
しかし1950年代のマレー人優先化政策を唱えるマレーシア・ナショナリズム高揚と共にインドの影響力は弱まり、Malay Film Production
Ltdもマレー人監督登用を検討せざるを得なくなった。更に制作スタッフを補完するため、言語的に近かったフィリッピンからも監督を呼び寄せたが、彼等の映画は人気度で相対的にインド人監督に劣っていた。こうして1955年『The
Trishaw Puller』で監督デビューを果たす人気俳優P・ラムリー(注1)を中心とする「マレー語映画」黄金時代を迎える事となる。しかし1960年代の賃上げと労働環境改善を求めるストライキとデモの度重なる発生、及び専属俳優・監督として同社の屋台骨を支えていたP・ラムリーが1964年クアラルンプールに移動した事によって同社は経営難に陥り、更に1966年最後の作品となる『Raja
Bersiong(ブルション王)』の興行的大失敗が重なって、1967年遂にスタジオの閉鎖に至った(注2)。
2、キャセー・グループ
1915年シンガポール生まれのLoke Wan Tho(ロク・ワントー:陸運濤)は、1935年映画興行会社として「Cathay Organization」(注3)を設立した。戦後シンガポールに戻った彼はショウ・ブラザーズの独占に対抗すべく、1953年、Ho
Ah Loke(ホー・アロク:何亞六)と共同で「Cathay-Keris Productions」を設立し「マレー語映画」の制作を開始した。同社は娯楽映画志向のP・ラムリーに対抗すべく、芸術映画志向の監督Hussein
Haniffを見出した。32歳という若さで他界した彼は、同社で13本の映画を制作し、特に「ヴァンパイアもの」はインドネシアにも輸出された。黒澤明の影響を受けたと言われる彼はP.ラムリーと並び、「マレー語映画」をインドの影響から脱却させた名監督と言われる。
シンガポールを制作基地として同社は、1953年より1972年までに115本のマレー語映画を制作した。更に香港を基地とする関係会社「Motion Picture
and General Investment Co.Ltd(略称;MP&GI:国際電影懋業公司)は、1955年から1970年まで200本の広東語・北京語映画を制作した。更にLokeは、香港のLee
Tsu Yung(注4)が所有する「Yung Hwa Company(永華スタジオ)」の香港映画をシンガポールに輸入し配給する一方で、Yung Hwa
Company の役員に就任し、1952年シンガポールで制作された6本の映画の香港独占配給権と交換に融資を行なった。その後1955年財政危機に陥ったYung
Hwa Companyを買い取り、翌年MP&GIの香港子会社としている。
しかし1961年香港・シンガポール間の経営権を巡って軋轢が生じ、1964年Lokeが飛行機事故で不慮の死を遂げ(享年49歳)、1972年にCathay-Keris
Productionsは最終的に制作を停止した(注5)。
こうして「マレー語映画」全盛時代が終了すると共に、シンガポールにおいて制作から劇場までを独占する2大スタジオによる「スタジオ・システム」は解体したのである。
注記
注1、1929年ペナン島に生まれたP・ラムリーは、マレー半島随一のマルチ・タレントと評価されている。作曲家兼歌手から出発し、ラージハンス監督に才能を認められ、1948年シンガポールに移り脇役として『Love』に出演、1950年『By
God’s Will』の主役に抜擢され、『Duty』の英雄役で人気俳優となった。
1963年東京の『アジア映画祭(Asian Film Festival)』で、彼は「最も多才な俳優」の称号を与えられている。
しかし1965年の分離・独立は通算60本以上の映画に出演し30本以上の映画を監督した彼に大きな影響を与えた。内18本は1964年マレーシアに移動後1973年に死去するまでに、Cathayを去ったHo
Ah Lokeがインド人監督クリシュナンと共同で新規に設立したクアラルンプールの「Studio Merdeka」で制作されている。しかし資金難と機材不足は勿論の事、特にマレーシアのイスラム化が大きな足枷となった事は次の発言からも明らかであろう。
Timothy Whiteは「マレーシア政府は、彼の得意とするヴァンパイア作品が超自然現象を描いており
非イスラム的だとして嫌った」と述べている。
Thomas Fullerは「マレーシア政府は、ギャンブル、アルコール禁止を強化し、キャバレーは閉鎖さ
れ、女性はゆったりとした服を強制された。皮肉な事に、マレー文化の象徴と彼の芸術を称揚したマレーシア政府が採用したマレー人優化政策とイスラム教強化政策は、P・ラムリーが愛した芸術的自由を死に追い遣やったのである」と述べている。
注2、ショウ・ブラザーズの力を決定的に弱めたのが1970年のゴールデン・ハーベスト社設立である。設立者のレイモンド・チョウ(鄒文懐)とレナード・ホー(何冠昌)は、共にショウ・ブラザーズで働いていた。特にレイモンドはランラン・ショウの片腕と言われていた。またブルース・リーがショウとの契約金額で折り合わず、ゴールデン・ハーベストと契約を結んだ事は大きい(『ドラゴン・危機一髪』、『ドラゴン怒りの鉄拳』)。更にマイケル・ホイ(許冠文)がショウと仲違いし、同社に鞍替えしたことも大きい。その後ゴールデン・ハーベストの収益にジャッキー・チェンが大きく寄与する事になる。
注3、1950年に天然色映画がCathay Organizationによって導入されたが、シンガポールで制作された最初の天然色映画は、1953年B.S.Rajhans監督の『Buloh
Perindu』である。
注4、1949年共産中国建国に伴って、多くの上海映画人は香港に逃亡したが、Lee Tsu Yung はその一人である。
注5、後を継いだLokeの妹の夫、Choo Kok Leong (チュー・コクリン:朱国良)は、Cathay Organization を「Cathay
Organization(HK)」と名称変更しMP&GI社を吸収した。同社は1970年に映画制作を止め配給専門会社に特化する事になる。1984年から父に代わって、配給会社「キャセー・チェーン」社長にメイリーン・チューが就任した。なお同社の関係会社「Cathay
Asia Films」は後述するように1996以降シンガポールにおいて映画制作を開始している。
第4節、「マレー語映画」盛衰期の政治的・経済的歴史背景
1、1959年自治国成立から1963年マレー連邦成立までの動き
1948年の「英領マラヤ連邦」成立と切り離され、再度英領直轄植民地となったシンガポールで戦後最初の選挙が行なわれたが、有権者は当時の人口の20数%に当たるイギリス市民権を持つ者に限られた。更にイギリスの公共部門における英語優先政策は、華語組の就職やその後の昇進時の不平等を引き起こし、その後民間部門にも波及したので華人社会は、植民地政府の言語政策に不満を持ち始めた。この不満が1954年以降の学生運動、華語系労働組合の台頭に結びつく事になる。
英領マラヤ連邦のイギリスからの独立交渉が始まった1950年中期から、シンガポールでも自己の将来に対する関心が高まりだした。当時シンガポールに住み、この地に帰属意識を持ち出した人々は、マレー人、華人、インド人のいずれを問わず自らを「マラヤ人」(注1)として意識し、シンガポールのマラヤ連邦への再統合を希望した。連邦の一次産品の輸出港に過ぎなかったシンガポールは、連邦と分離して独立する経済的条件が欠如していると考えられていたからである。
1949年ケンブリッジ大学法学部を優等で卒業した李光耀は、翌年帰国し「マラヤの現状では、イギリスを追い出し独立を達成できるグループはマラヤ共産党だけである。だが共産主義がシンガポール、マラヤに適切な制度でないとすれば、帰国学生が広範な大衆運動を組織し、合法的手段で国家独立を達成しなければならない」と演説している。「マラヤ・ナショナリスト」を任じていた李光耀の人民行動党は1954年11月に結成された。完全主権を持つ自治政府成立後初の1959年選挙で51議席中43議席を占めて李光耀が首相に就任した。1959年6月3日の新憲法発効祝賀式に集まった約6万人は、新国家の国語となったマレー語で「ムルデカ(独立)」を叫んだのである。
なお、李光耀を始めとする英語教育を受けた少数のイギリス帰りのエリート〔英語派〕が、人民行動党内で短期間のうちに権力を握るには、既に大衆的基盤を持つ多数派の共産主義系労働組合活動家や華語学校学生〔華語派〕と連携しなければならなかった。華人とは言え北京語、中国語方言が話せず、中国語方言を話す商店主・労働者及び北京語学校の学生達に意を伝える事すら出来なかった李光耀は、S・ラジャラトナム等の協力を得て、1952年の軍港労働組合ストの調停、1954年の兵役免除の主体である華人学生運動の法律顧問に就任し過激な弁護士として名声を高め、労働組合へ強い影響力を行使していたマラヤ共産党との連携を選択したのである。
しかし1959年総選挙の圧倒的勝利後、1957年に完全独立を果たした新生「マラヤ連邦」との統合問題をめぐって両者は分裂し、共産主義系の華語派は親共産主義者と共に李紹祖(リー・シュチョウ)をリーダーとする野党「バリサン」を1961年に結成した。人民行動党内の英語派は、1961年ラーマン首相のサバ、サラワク、シンガポールを含めた「大マレーシア構想」に賛同し、来るべき「マレーシア連邦」との併合で、党分裂による劣勢を乗り切ろうとした(注2)。
注記
注1、竹下秀邦は「マラヤに生まれ育ち、マラヤ市民権を持つべきマレー人、華人、インド人、ユーラシア人総てを指す。後にマレーシアでマレー人優先化政策が問題となるが、これはマレー人と呼ばれ明確に区分すべきである」と述べている。
注2、なお当時のマレーシア、シンガポール併合反対者の理論的根拠は次の発言に代表されている。
華人系が約100万を占めるシンガポールのみとの併合では、新国家の種族構成はマレー系43%、華人系44%となって華人系が多数派になってしまう。しかしサバ、サラワクを参加させればマレー系46%、華人系42%になるので、マレーシアは経済的に遅れている両地域を参加させるべきだ。
2、1965年のシンガポール分離・独立までの動き
「マレーシア連邦」加盟の成否を決する国民投票が1962年9月シンガポールで実施され、政府提案が70.8%の賛成を得た事により、シンガポールは1963年サバ、サラワクを統合した新連邦国家マレーシアに1州として参加した。李光耀は「シンガポールは永遠に民主・独立の主権国家マレーシアの一部となる。諸州と中央政府との間に兄弟としての関係を要求する」と述べた。1963年9月のシンガポール州選挙は、51議席中31議席を人民行動党が獲得し大勝利となった。同党は治安維持法(注1)を発動して、バリサンや労働組合、更に共産主義華語派の牙城とみなされていた南洋大学(注2)の学生活動家に対する大量逮捕を決行した。李光耀は中国系住民と共産中国との絆を断ち切ろうとして、シンガポールの「マラヤ化」を推進しようとしたのである。
なお1959年のシンガポール新自治政府の経済政策は、1963年のマレーシア連邦加盟による共同市場を前提とし、14%とも言われた失業問題を解決するため、輸入代替政策を採用し中継貿易の拡大と工業発展を目的とするものであった。1961年からの4年間を対象とした開発計画の主眼は
[1] 公共投資:1955-1959年の倍に当たる8億7100万Mドルを予算計上し、経済開発局(EDB)を設立、ジュロン工業団地事業が開始された。
[2] 住宅建設: 1960年に創設された新設のHDBは、独自の第1次5カ年計画を立案し、1965年までに5万3千戸の公営住宅を建設した(注3)。
一方、大国インドネシアのスカルノ大統領は、米英を中心とする先進国が発展途上国マレーシア連邦を経済的に支配しようとする新植民地主義の試みだと看做し、1963年1月マレーシア連邦結成反対声明を発表、同年9月に国交を断絶した。また前年6月イギリスに対し北ボルネオ(サバ)の領土請求権を正式に表明していたフィリッピンも国交を断絶した。中国の劉少奇は両国の決定を煽るように「インドネシアはマレーシアの新植民地主義に反対し、また北ボルネオの革命闘争を断固支持する」との声明を発表した。
注記
注1、治安維持法は容疑者を逮捕令状なく無期限に拘束する権利を治安当局に与える法である。イギリス植民地政府が1919年に「反英分子」を取り締まるため、警察に与えた特権を起源に持つ。シンガポールでは1955年に成立し、1965年の分離・独立直後から1970年代初頭まで「共産主義者取締り」の名目で治安維持法が度々発令された。野党や批判勢力の勢いが急速に衰え且つ豊かな社会を実現させた人民行動党の信頼が高まるにつれ、1970年代後半には発動が少なくなった。しかし1987年5月から6月にかけて再び発動された。「マルクス主義的国家転覆計画」に関わったとしてカトリック教会活動家を含む22人が逮捕されている。1986年2月のフィリッピン2月革命や1980年代後半の韓国民主化運動において教会が大きな役割を果たしていた事実に対する不安があったと考えられる。
未だ独立後も継続する「マレーの大海に浮かぶ華人の小国」という国際環境と、多様なエスニック・グループを国内に抱え、国民統合の途上にあるが故の危機感から同法は未だ廃案にされていない。竹下秀邦は、1986年人民行動党幹部会での李光耀の「シンガポールの主要課題は3つのC、植民地主義(Colonialism)、共産主義(Communism)、種族主義(Communalism)である」との発言を紹介し、「彼は首相になって以来、種族主義の傾向を示すグループに対して、どの種族であれ躊躇なく予防拘束や不起訴拘留に処している」と述べている。
注2、1952年に創立された同大学は1980年シンガポール大学に吸収されてしまう。
注3、シンガポール統計局によれば、2003年末現在HDBが建設した公共住宅の居住者は84%であり、
シンガポール人の持家率は93%である。
3、1965年シンガポール分離・独立以降の動き
13州からなる連邦制の立憲君主国家「マレーシア連邦」では、信教の自由は認められたがイスラム教が国教と定められ、マレー語が国語とされるなどマレー人の特権が数多く認められた。更にマレー人優先化政策を基調とした連盟党が、人民行動党の存在をないがしろにし権益を奪っているとの不満が高まり、1964年7月と9月シンガポールで人種対立事件に発展した。1965年8月マレーシア中央議会は「シンガポール分離・独立協定法案」を提出し、賛成126、反対無し、棄権1で可決した。
国民投票によって国民の信を問う時間もない突然の連邦からの分離決定に際して1965年8月9日、李光耀の国民に向けた「私は成人して以来これまで全人生をマラヤとの再統合にかけてきたのに・・・」との切々たる演説は彼の心情を吐露したものであった。
しかしマレーシアとのつながりを残そうとして1965年末に開始された「国語(マレー語)月間運動」は、1967年末になると急速な経済発展もあって政府の熱意が急激に醒めてしまう。代わって各民族の中立言語・英語の行政語としての地位が高まり、1968年教育相は新言語教育制度を発表、翌年から数学、科学を英語で、社会科、歴史を母語で学ぶというバイリンガル教育、実際には英語重視政策が実施された。この背景には中国に刺激された国内の華人左翼運動を抑える事、及び華人が多数を占めるシンガポールが、共産主義中国の東南アジアの拠点「第三の中国」になるのではと、隣国インドネシア、マレーシアから警戒されていた事がある(注1)。李光耀は後年「華人国家とのイメージが前面に出ないよう、英語をワーキング・ランゲージとする事が我々最初の決断であった」と述べている。
シンガポール独立後もインドネシアとの経済対立は直ぐには解決しなかった。スカルノ大統領に反マレーシア、反英米路線を取らせていたインドネシア共産党が「9・30事件」(注2)で崩壊し、翌1966年スハルト将軍が実権を握ってからようやく、同年9月に通商協定が締結され1967年9月国交が樹立した。とは言え1968年、再度マレーシア半島人民に武装蜂起を促し、「ラーマン・李光耀一味」を厳しく非難する論説が中国の『人民日報』に掲載された事からも理解できるように、現実的脅威としての共産主義に直面する李光耀にとっても「華人のためのシンガポール」化は断じて許容できるものではなかった。それ故シンガポールは反共姿勢を明確にし、生き残りのための現実主義に徹し、経済を中心とした友好関係を東西陣営問わずまたバランスを失しないように結ぶ事に努めたのである(注3)。更に1997年に設立された反共・親米路線を色濃く反映したASEANに設立当初から加盟し、イギリス軍の部分撤退が明らかになった後、1967年兵役期間を2年とする「国民兵役法」可決させている。同時にイギリス軍の全面撤退が決定されるや否や,反米主義者・李光耀はアメリカを訪問しジョンソン大統領のベトナム戦争遂行に支持を表明した。イギリスに代わってアメリカに東南アジアの安全を保証させ、また同国の資本・技術を引き込む事に舵を切り替えたのである。こうしてエッソ石油を始めとするアメリカ資本が以後流入し始める。
一方1969年、首都クアラルンプールのセランゴール州議員選挙でマレー系、非マレー系同数となった結果、華人をマレー人が襲う人種暴動「5.13事件」が発生した。暴動収拾後、統一マレー人国民組織(UMNO)にマレー人優先を唱える強硬派が台頭し政治の実権を支配する事になる。
なお1965年マレーシアからの分離・独立に伴い、マレーシア共同市場構想の挫折、輸入代替政策の頓挫、中継貿易港としての重要度低下、失業率増加などの諸問題が深刻化した結果、経済政策は大きく転換せざるをえなくなり、権威主義体制(注4)を基盤とした輸出志向工業化政策が1960年代後半から採用される。
外資の積極的誘致方針が打ち出され、工業団地の整備、1967年の雇用法・労働関係改正法等の法整備、投資奨励策などの積極的な支援策が推進された。この時期は世界貿易が急拡大し、多国籍企業が国際展開を開始した時期でもあり、シンガポールの整備されたインフラは外資にとって大きな魅力となった。こうして外資系企業と政府系企業を中心とする労働集約的・資本集約的産業の集積が進み、中継貿易基地からの脱却と輸出志向工業化への転換が達成され、輸出産業育成の成功は当時社会問題となっていた失業を解消し、シンガポール経済を離陸させたのである。権威主義体制下の経済政策によって、1965年の経済成長率は7.3%と前年から大幅に回復した後、1966年からオイル・ショック直前の1973年まで平均12.7%(製造業18.8%)という高記録を達成した。
しかし輸入代替から輸出志向工業化への転換は、中華総商会を始めとする地場の伝統的華人経済と人民行動党の支持基盤であり1961年に設立された唯一の全国組織「全国労働組合会議(NTUC)」にも大きな犠牲を強いるものとなった(注5)。
注記
注1、「中国の影」に対抗し国家統合を推進するため、次の諸政策が推進された。[1]英語を公用語の中心とする教育・言語政策、[2]エスニック・グループ住み分けを解体する住宅政策、[3]外交においては中国、台湾のどちらとも国交を結ばず、政治面での接触を避け、経済分野を中心に実質的な関係拡大を図る。
1973年「ASEANの中で中国との国交を正常化する最後の国となる」と公約、その後1990年に国交を回復してから積極的対中姿勢に転じた。1994年の蘇州工業団地開発は、2001年1月中国に管理権を引き渡した結果、実質的に失敗したプロジェクトと言われている。また国内では中国人による不法就労、偽装結婚問題が発生している。
注2、インドネシアでは1965年に発生した「9・30事件」を契機に、漢字の使用禁止、華人会館や華語学校の閉鎖など華人に対する厳しい措置が取られてきた。1990年に中国との国交が実現し、華人政策にも変化の兆しが見られたが、スハルト大統領退陣の契機となった1998年の華人排斥暴動では、チャイナタウンを中心に華人の商店が暴徒によって略奪、放火の被害を受けており、エスニック問題が決して過去の問題でない事を示している。
注3、例えばベトナムと通商協定を1968年締結し経済関係を維持した。
注4、渡辺利夫は権威主義体制を「強力な軍・政治エリートが開発を市場目標として設定し、有能な官僚テクノクラートに開発政策の立案・実施に当たらせ、開発の成功をもって自らの支配の正統性の根拠とするシステム」と定義している。
シンガポール政府は、中国の影響力を強く受け人民行動党に批判的な華人社会の資本に頼らず経済成長を実現するためには、外資を積極的に導入し、時間と手間のかかる民主的な手続きや政治的発言が制限されても仕方ないとする強力な権威主義体制を採用した。
注5、例えば、公務員給与の1年半凍結等の労働コスト抑制、労働時間・休日などの労働条件引き下げ、労使交渉・協約の制限が採用された。更に巨額な産業投資資金は、主に雇用者・被雇用者双方からの強制貯蓄制度である中央備蓄基金(CPF)と郵便貯金に依拠していた。特に強制貯蓄の率は1955年の制度創設以来給与の5%だったものを1968年6.5%に、以後1970年8%、1972年12%を経て1984年の最高時には25%に上った(1986年には雇用者側負担が10%に引き下げられた)。
高い国民貯蓄率(1984年で41.6%)は、シンガポール経済を支える重要な要素となると同時に、大量の資金は民間ではなくHDB、PUB(公共事業局)の公共事業に支出された。
4、第1章の小括‐2大制作スタジオの閉鎖要因
(1)、政治的要因
[1]、対マレーシア;マレー人優先化政策高揚を起因とする1965年の分離・独立は、マレーシアにおける市場喪失を意味したが、より重要なのは制作スタッフ、機材が分断した結果、両国共に映画産業が弱体化した事である。また映画関係者と機材の交流自体を政治問題とみなす「情報交換規制」は、新生両「国民国家」の映画産業に深刻な影響を与えた。
[2]、対インドネシア;「マレー語映画」がマレー半島内の市場だけではなく、近隣マレー語圏インドネシアに依存した映画であった点で、1963年の同国の国交断絶宣言は大規模市場の喪失を意味し制作スタジオの経営難を加速させた。1950年代のCathay配給部長だったAlbert
Odellは「ビジネスは困難を極めたが、インドネシア市場を我々は絶対に必要としていた」と述べている。
[3]、「マレー語映画」は、1965年までシンガポールがマレーシアの1州に属し、李光耀を含め自らを「マラヤ人」だとする精神的一体感をその存立基盤としていた。しかし分離・独立及びその後の輸出志向工業政策はその一体感を喪失させてしまったのである。
(2)、社会的要因
[1]、1960年代、社会の安寧秩序を名目とする治安維持法が頻繁に労働組合・学生運動に発令された事による社会不安の拡大は、ショウ・ブラザーズを始めとする制作スタジオ経営者に事業継続を断念させる契機となった。
[2]、1963年からシンガポールとクアラルンプールでテレビ放映が開始されたが、その
影響は深刻でHerbie Limは「我々は約50%の観客を失った」と述べている。
[3]、輸出志向工業化への転換及び大規模な外資参入は、観客の主体である都市部若者の「マレー語映画」から西洋文化の象徴である「英語映画」への嗜好変化を加速させる契機となった。この変化を加速させた要因として、HDBが建設する高層住宅居住者が1960年の9%から1985年に81%と急増した事により、「マレー語映画」の主舞台であった伝統的なカンポン(村落)共同体が崩壊していった事が上げられる。
(3)、検閲強化政策の影響
以上の要因に加え、自治国成立、マレー連邦への参加と分離・独立に至る過程で発生したエスニック間の対立による政治的・社会的不安定感の払拭を目的とする1960年代の「検閲強化政策」は、映画産業全体に映画投資家の減少という深刻な打撃を与えた。
1960年代初期に「映画法」が施行され、国内自治を獲得した新政府は若者のモラル退化を引き起こす「三流文化」の撲滅に着手した。当時の文化大臣ラジャラトナムは、全面的検閲強化による映画浄化運動を提起した(注1)。伝統的性表現、暴力場面規制に加え政治的に悪影響を与えると考えられる映画、特に北京語及び中国語方言映画も対象となったのである(注2)。上映禁止作品数は、1959年6月の10本に対し、1960年同月には60本にも上っている。
以上の通り、1963年以降の市場喪失及びシンガポール政府の経済政策転換は、投資家であり資金の出し手であった2大スタジオに制作継続を断念させ、「マレー語映画」の存在意義を失わせたのである。またシンガポール、マレーシア両国それぞれがが新たな「国民国家」創造へ進み始めた結果「マレー語映画」制作の継続が困難になった事実は、国際スタッフ構成を基盤とした同映画が政治的側面からの影響を如何に強く受けざるを得なかったかの良い証左となる。
多文化主義を前提とした政府の強引な「国民統合政策」と2大スタジオの閉鎖は、第2章で述べる長期に亘る「映画の砂漠時代」、換言すれば困難な映像文化創出の時代を生み出す事になる。
注記
注1、
(1)検閲前史;マレーシア半島における公的検閲機関は1923年に確立され、海峡植民地、マレー連合州そしてジョホールを経由して輸入される映画の検閲権を有していた。例えば1925年の輸入映画のうち、約1割は輸入を禁止され、残りは好ましくない部分をカットされている。その代表例が『カサブランカ』の監督として有名なマイケル・カーティスの『イスラエルの月』である、本作は宗教上と民族問題を扱っているという事で上映を禁止されたが、その後大論争が起き当初の決定が逆転した事で有名である。
Timothy Whiteによれば、特にハリウッド映画がその標的とされた。1926年Hesketh Bell卿は「ハリウッド映画は共産主義のプロパガンダ映画であり、また白人と現地人の不必要な混交、犯罪行為を描写しており植民地経営に害を及ぼす」と述べている。1930年代には多くのハリウッド映画が過度に暴力的、宗教上のタブー、民族対立を煽るとの理由で上映を禁止されるかカットされた。例えばジョン・フォードの『4人の復讐』は過激な民主主義を扇動しているとの理由で禁止されている。
1953年に施行された「映画条例」の下で、映画検閲委員会(the Board of Film Censors)が設立された。本条例が実際に適用された映画の一つは、1957年「Malay
Film Production Ltd」制作のインド人監督バーニ・マジュムダールの悲恋物語『ロング・ハウス』である。ダヤク族出身女優Luliが胸部を露出していたというのがその理由だった。当時のダヤク族の習慣ではそれが普通であったにも拘らず彼等の伝統文化は無視されたのである。
(2)、「三流文化」に対する検閲強化;1960年代に流行したロックン・ロール映画がその代表である。映画館に備え付けられたジューク・ボックスも撤去されるという徹底ぶりであった。またブルース・リーの『ドラゴンへの道』も、1973年過激な暴力シーンと彼のロング・ヘアーが故に禁止されている。
更にコミュニケーション・センター等での無料試写会も違法とされ、青空上映会も不逞の輩の集合場所になるとの理由で禁止された。
注2、例えばCathay-Kerisによって1960年に制作された最初の北京語シンガポール映画『ライオン・シティ』は、政府当局からシンガポールの多文化主義を軽視するとして断罪されている。また「Kong
Ngee Co Ltd」は、1955年最初の映画『ドラゴン・ネット』の制作後、福建語映画と潮州オペラを基にした映画を10数本制作したが、1963年以降制作を断念している。
華人系を中心とする共産主義の影響、換言すれば「中国の影」を徹底的に排除するとの政府の姿勢が強く反映されているのは明らかである。一方、Yi Wen監督の『Sun,Moonand
Star』に代表される香港映画が、政府の規制強化にも拘らずシンガポール華人から根強い人気を誇っていたのは興味深い。
参考文献
1、Yingjin Zhang “ Chinese National Cinema “
2、Jan Uhde and Yvonne Ng Uhde “Latent Images Film in Singapore “ Oxford Univrsity
Press 2000 。なおJan Uhdeは カナダのUniversity of Warterlooの「映画学」教授であり、 共同執筆者Yvonne
Ng Uhdeは『Variety International Film Guide』のシンガポール・セクションを担当している。
3, Philip Cheah “ Starting Over Singapore“
4, Timothy White “The Cinema of Malaysia”
5, 『シンガポール リー・クアンユウの時代』竹下秀邦 アジア経済研究所 1995年
6,『アジア映画の都−香港〜インド・ムービーロード』松岡環 めこん 1997年
7、『世界各国史6、東南アジア史U島嶼部』池端雪浦編 山川出版社 1999年
8、『民主化の比較政治−東アジア諸国の体制変動過程−』武田康裕 ミネルヴァ書房 2001年
9、『東アジアの開発経済学』大野健一・桜井宏二郎 有斐閣アルマ 1997年
10,人名検索は、www.zoominfo.com/directory/に基づく。
11, “The Golden Days of Cinema in Singapore”www.hsse.nie.edu.sg/staff/blackburn/Singapore.htm
12, 『フリーダムハウス』のホームページは、www.freedomhouse.org/
13,シンガポール統計局のホームページは、www.singstat.gov.sg/
14, 『シンガポール国際映画祭』のホームページは、www..sfc.org.sg/statistics/